西日本新聞(2013.04.01〜) より転載
64.東京へ、54歳の挑戦 (6/17掲載)
福岡市に料理スタジオを構えて6年後、東京で再起を図ることを決めました。東京で暮らした1970年代、芽が出かけたところで夫の転勤のため北九州に転居し、一度は一線での仕事を断念。子どもが独立し、身軽になったところで夫の啓助さんに東京進出を宣言すると「きっと言うだろうと思っていた」とゴーサインです。試しに都内のマンションの一室をスタジオにして始めましたが、舞い込む仕事は雑誌の料理ページばかり。「ちゃんと食べて、ちゃんと生きる」という信念を伝える仕事をしたいという思いが募りました。
「主婦の村上さん」として雑誌に登場した昔のイメージを払拭(ふっしょく)するには、仕事の足掛かりになるレシピや資料のバインダーを収納できる場所も必要です。96年、本格的なスタジオを開く決心をし、名店がひしめく西麻布にぴったりの賃貸物件を見つけました。ただ、賃料は目が点になるほどの高額。友人からは「祥子ちゃん、今回だけはやめておいた方がいいよ」と真剣に忠告されましたが、私は「必ず勝ち戦にするから」と覚悟を語り、東京スタジオをオープンしました。54歳の春でした。
出版社の方々をスタジオに招いて自己紹介と宣伝を兼ねた食事会を開きます。何より会ってもらい、食べてもらう。現在形で評価してもらいたいとの思いからです。新しい出会いもありました。元NHKディレクターで料理新聞社を経営していた日出山南枝さんが、食関係者の集まり「小正月の会」に誘ってくれました。そこで歯科医で料理研究家の田沼敦子さんが声を掛けてくれました。夫は写真家の田沼武能さん。東京の食関係の方を何人も紹介してくれ、今でも大切な友人です。
徐々に単行本の仕事が増え、全国区の存在感を確立した契機が98年の「毎日がおいしい工夫」(講談社)でした。エッセーを交え素朴でも意外性のある家庭料理を掲載。博多出身の編集者、堺公江さんが熱烈に応援してくれ、題名も「みんな放り投げたくなるくらい」考えてくれました。写真も日常感を出そうと、カレーを注いだ後のおたまや、出来たてをさっと運んでブレている私のスナップなど、従来の美しく静止した料理写真の常識では考えられない挑戦がありました。生活からにじみ出るレシピが受け入れられる時代が到来していました。
65.テレビ界を“泳ぐ” (6/18掲載)
1996年に東京にスタジオを開いてから、テレビ出演の依頼が増えました。それまでも福岡で「アーモンドホームクッキング」(KBC)、「サニーメニューステーション」(TNC)などにレギュラー出演していましたが、テレビ局が集中する東京では、さまざまな料理番組から声が掛かります。NHKの老舗番組「きょうの料理」の97年6月のテーマは「20分で晩ごはん/えびの黄金揚げマヨネーズクリーム」。共働き世帯数が専業主婦のいる世帯数を上回ったころで、スピード感ある献立が家庭像の変化を反映しています。
さて、番組出演となると食材の買い出し、仕込み、運搬と全て自前です。助手役のスタッフと一丸になって秒刻みの本番に備えます。にっこり笑って料理し解説しますが、裏方との連携プレーあってこそ。カメラに写らない場所から助手が次の材料や道具を手渡します。「はい、10分焼けばこの通り」と、さっと次の展開のお皿を出すには緻密な秒読みが必要です。「ラップをちょうだい」なんて口では指示を出せませんから目配せで合図しますが、ときどき「は?」と通じないことも。小さなハプニングもありますが、そこは臨機応変に。すまして切り抜けます。
料理研究家の多くはプロダクションに所属し全て事務所が調整しますが、私はフリーなので衣装ひとつから用意します。テレビに出始めのころ、白いシャツに紺のタイトスカートでぱりっと登場したつもりが、メイクさんに「学校の先生みたい」と言われたものです。数着を着回す主義でしたが、テレビのために鮮やかな色の服も調達。1度着ればそれでおしまい、同じ服を着て出演はできません。「はなまるマーケット」(TBS)、「ためしてガッテン」(NHK)など出演が続きました。
スパンコールをきらきらさせて登場した「おもいッきりテレビ」(日テレ)のクリスマス特番では、みのもんたさんが「まあ、妖精みたい」。持ち上げ、盛り上げるのがお上手です。間の取り方も絶妙で、頭の回転の速い人だとつくづく思いました。「黒豆の煮汁をピンクのシャンパンに」など化学反応を応用した料理手品≠披露。妖精でもマジシャンでも演じてご覧に入れます。何を求められているかを理解して応える、それがテレビの世界を泳ぐ@ャ儀だと悟りました。
66.山下さんのメモ (6/19掲載)
福岡と東京のスタジオを拠点に全国を飛び回る私を支えてくれるのは、優秀なスタッフたちです。料理担当から在宅のレシピ打ち込み係まで全員女性。なぜかって?女性は勤勉だし、見事に働くでしょう。
1990年に福岡市に、96年に東京に料理スタジオを構えてから正式にスタッフの採用を始めました。福岡女子大の卒業生、山下圭子さんもその一人。いつも真剣に役目を果たしてくれました。本人が言うには「真剣でないと、とても先生の行動力についていけなかった」とのことですが…。猛勉強して管理栄養士資格も取得。今は巣立っていきましたが、先日、スタッフとして働いたころのメモが見つかったそうなのです。
「ひとつのことが的確にできる人は全てできる」「人間は成長もするし、とどまりもする」。走り書きのメモは「村上語録」と命名されていました。厳しい言葉も誠実に受け止めてくれていたのですね。20代だった当初は料理があまり得意ではなかった彼女ですが、忘れられない思い出があります。私が名古屋でテレビ収録を終え深夜に疲れ果ててスタジオに戻った日、山下さんが1人待っていて、温かいおにぎりとさつま揚げの食事を用意してくれたのです。決して器用ではないけれど、精いっぱいのごはんでした。「おいしいよ。心がこもっているから、なお、おいしいよ。食べ物って人をこんな気持ちにさせるのよ」。思わず、こんな言葉がこぼれました。
現在、山下さんは福岡市の老人ホーム「フィランソレイユ笹丘」で介護食のエキスパートとして活躍していて、5月には和食の大家・野崎洋光さんとの共著「野崎さんのおいしいかさ増しダイエットレシピ」(柴田書店)も出版しました。たくさんのスタッフが力になってくれ、立派に成長していきました。三重県・伊賀焼の土楽窯を継ぐ福森道歩さんは、レシピ本「スゴイぞ!土鍋」(講談社)を出版しました。
城戸恭子さんをはじめ、現在のスタッフも大切な仲間たちです。私のスタッフ教育を「村上学校」と呼ぶ人もいます。私は「すぐやる課」の課長を自任しています。片付けも率先して私がやります。お手本がしゃんとしてないと、誰も動きません。平手で背中を押すように、若い人にぐうっと良いプレッシャーを与え続け、励ましています。
67.名店と家庭の味 (6/20掲載)
東京・西麻布に料理スタジオを開いた1996年ごろは、バブル崩壊後の不況で料理店の開店と閉店はめまぐるしいものでした。激戦区では信念のある店だけが淘汰されずに残ります。50代半ばで東京へ勝負をかけた私は、そんな時代の波にも揺るがない料理人たちに出会いました。2人をご紹介しましょう。
西麻布の小高い坂を少し上った辺りにあるイタリア料理店「リストランテ・アルポルト」のシェフ、片岡護さん。美大志望だったのが受験に失敗し、ひょんなことからイタリアの日本領事館でコックをすることに。帰国後、懐石風イタリアンでイタリア料理ブームを牽引(けんいん)する存在になりました。「イタリア料理は素材と鮮度の料理。そしてどこかいいかげんで、ちょっと抜けてる人間らしさがある」。片岡さんは、イタリア人が何より理想とするのは「ママン(母)の味」とも教えてくれました。福岡県直方市出身の妻長子さんとともに、和やかな人柄で人気店を切り盛りされています。
同じ西麻布には日本料理の名店「分とく山」もあります。総料理長の野崎洋光さんは著書「美味しい方程式」などで、時代に合った提案を続けてこられました。大変な勉強家で、風呂場まで本が積まれていたという話も。そのお料理には、りんとしたたたずまいがあります。例えば、マツタケの土瓶蒸し。エビやハモなどが入ったものも見かけますが、これでは主役が引き立たない。マツタケが主役なら豆腐、三つ葉などとそろえ、料理に主語と述語を持たせます。思えば、食材が豊富な現代は「主語ばかり」の料理も多いですよね。
野崎さんは「プロの料理人は効率と利益を重視する。仕込みから配膳まで時間があくため、素材をだしで炊いたりソースを使ったりする」と言い、一方で「家庭料理には出来たてのおいしさがある。健康面でも衛生面でも最高」と説かれます。大根もゆでたてなら、何もつけなくてもおいしいものですよね。高校時代に姉の腎臓病を治したいという一心で栄養学の道を志した野崎さん。「体に良い、理にかなった食事を作るのが料理人の使命」と言われます。片岡さん、野崎さんに共通するのは「家庭の味」の価値を知り抜いた上での創造です。家庭、そして日本という土台を大切に、世界を見つめておられます。
68.水を選ぶ時代 (6/21掲載)
「日本人は、水と安全をただと思っている」とイザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」で、筆者が日本人をこう評したのは1970年でした。治安の保障と合わせて、まるで空気のように当たり前に存在し、無償で享受できる存在だと思われていた水が、90年前後からにわかに脚光を浴びるようになりました。
生活水準の向上と並行するようにエコ(環境保全)ブームの盛り上がりもあり、水道水の残留塩素などが議論されました。そこで登場したのが浄水器でした。TOTOがいち早く開発を進め、その後、旧九州松下電器も参入。私も両社の研究に加わり、非常勤講師を務めていた福岡女子大学とともに浄水の有用性を実験・測定しました。
浄水器は水道水を家庭で再びろ過する機器。そのうちアルカリイオン整水器は、水を電気分解しアルカリ性にする機能を持ちます。水道、浄水器、整水器のそれぞれの水で調理すると、お茶やだしの抽出にはアルカリ性の水が良く、野菜や肉のアクも出やすいという結果になりました。酸性の食材に用いると、中和作用が働くのです。「これはよし」と結果が出たら、今度はこの「有効な水」を使ったレシピの開発です。そこでは食材の色やうま味をいかに引き出すかがポイント。素材の持ち味を生かす日本料理の本質が、水の成分から問われるという、まあ大変な時代の始まりでした。
飲料用容器として日本でペットボトルの使用が解禁されたのは82年。ミネラルウオーターの販売も拡大しました。市場は急速に広がり、輸入品も全体の2割を占め水の味にこだわる人も増えました。水の舌触りには硬度が影響します。ミネラルとは鉱物に含まれる無機質の栄養素のこと。山や地下の岩盤を通り抜ける過程で水に溶け込みます。このうち主にカルシウムとマグネシウムの含有量が少ないと「軟水」、多いと「硬水」です。日本は軟水の国。煮物など素材への浸透率が高い軟水ならではの料理が発達しています。硬水が多いヨーロッパでは、水の中に溶け込んだカルシウムと肉類のタンパク質の結合性を生かしたコクのある料理が多いですね。
水を選ぶ時代になりました。ただ、私は水道水で十分。日本の水道水はやはり世界トップクラスの安全性を保っているのです。
69.ヒットの鉱脈 (6/22掲載)
1996年5月から、西日本新聞で連載「電子レンジで祥子流」を始めました。家庭の電子レンジ普及率が9割を超えたころ。それでもまだ冷めた料理の温め直し用と見られていたレンジを調理の主役にするという当時としてはなかなかの挑戦でした。「手間をかけることがいいことだ」という考えが色濃く残っていたのです。一方で多くの家庭は子どもの塾通いやお父さんの残業などで食事時間がまちまち。1人暮らしも増え、お年寄りでも安全に手早く調理できる方法が求められていました。
電子レンジはゆでる、蒸す、煮るなどが得意で日本料理に適します。工夫すれば干物を焼いたり、少ない油で空揚げを作ることもできます。最大の魅力は少量でも素材の味を逃さず、すぐに出来たてを食べられること。70年にレンジ購入後25年ほど使い続け、その成果を自信持って公開できるようになりました。基本は材料100グラムにつき加熱2分(600ワット)という法則を守ること。勘に頼ってはうまくいきません。金、銀の塗料を塗った食器は使わないよう注意します。ポリ袋の使用は野菜ならOKです。90年代末に「電磁波論争」もありましたが、レンジの電磁波は携帯電話より弱く、人体に影響を与えるレベルではないのです。
新聞連載に目を留めた出版社から「炊飯やだし取りまで日常の料理をレンジ調理で提案するとは、石油の鉱脈を掘り当てたようなものですよ」と声が掛かりました。その後、中山庸子さんにイラストを依頼したエッセー「電子レンジに夢中」(99年、講談社)をはじめ、30冊以上のレンジ関連本を出版。今も私を「電子レンジの村上さん」と呼ぶ人もいます。電子レンジで発酵を促す簡単パンのレシピも当たり、難しい・面倒くさいというハードルを取っ払い、「自分でもできる」と思わせる仕掛けがヒットの秘訣(ひけつ)でした。「一つの成功は百の展開の可能性を持っている」が私の持論です。
健康志向を読み「バナナ黒酢」も考案。今度は「バナナ黒酢の村上さん」と呼ばれます。キャッチコピーがつくのは光栄なことです。瓶に黒酢200ミリリットル、黒糖100グラムを入れて混ぜて溶かし、バナナ小1本を3センチ幅に切って加え、600ワットで30秒加熱し、ふたをして半日置けば完成。おいしさに簡単さと意外性が求められる時代は今も続いています。
70.揺らぐ日本食 (6/24掲載)
日本の主食は米。1993年は梅雨前線が停滞して長雨が晴れず、続く冷夏で全国で米の生育不良の事態になりました。政府はタイや中国、米国から米を緊急輸入しましたが、外国米を食べ慣れない日本人は戸惑い、不買運動まで起こりました。いわゆる「平成米騒動」です。記憶されている方も多いでしょう。
日本など東アジアで栽培されるのは、ふっくらした炊きあがりで粘りのあるジャポニカ種。その他の地域では細長くパラリとしたインディカ種が多く栽培されています。店頭から国産米が姿を消したため、このインディカ種を食べるほかありません。私の料理スタジオにも「どうやって食べればよいのか」と問い合わせが相次ぎました。「タイ米としておいしく食べよう」と水気のなさを生かした焼き飯やエスニック風カレーライスを提案。どうしても和食に合わせたいなら一度ゆでこぼして独特のにおいを消し、圧力鍋で炊けばしっとりしたご飯にもなりました。翌年末には国産米の供給が回復し騒動は落ち着きましたが、日本人の米への思いを再確認した出来事でした。
その米の消費量が、年々減少しています。農林水産省の調べでは93年には1人当たり年間76・3キロ消費していましたが、2011年には63・8キロに減少。50年前と比較すると、ほぼ半減しています。1日に直せば90年代には平均209グラム、茶わん約3杯はご飯を食べていた食生活が、21世紀に入るころから変容しました。米を粉砕した粉でパンやパスタを作る近年の米粉ブームは、日本人の米飯離れを反映してもいるのです。
みその消費量も右肩下がり。1日平均消費量は9・8グラム(11年)で、1杯のみそ汁も飲んでいない計算になります。みそメーカーは海外市場の拡大に力を入れ、大手「マルコメ」は6年前に米・カリフォルニア州に現地向け商品の工場を建設しました。
明治初期に来日したドイツの医学者ベルツ博士は、たくましく働く人力車引きたちの体力を支えるのは、肉食ではなく、にぎり飯と少しのみそだと知り、驚嘆したといいます。ご飯とみそ汁は栄養素を補完し合う理想的な組み合わせでもあるのです。素朴な日本食の基本が揺らいでいる今、私は親子向けイベント「おにぎり&みそ汁クラブ」を開くなど啓発活動も続けています。
71.米国の食風景 (6/25掲載)
2001年、1通のメールが舞い込みました。「村上さんの本を読むとあまりの簡単さに驚きます。日本国内の料理の情報が私たちには伝わってきません。料理を教えに来てくれませんか」。送信者は、米国在住歴20年の木家下尤子(こかげゆうこ)さん。私は胸を打たれ、国内にばかり目を向けていた自分を反省し、米国行きを決めました。
在米日本人の方々は、恋しいまでに日本食を思っています。広大な国土では買い物も大仕事。ましてや日本食の材料は大都会でなければ手に入らず、できる限り手作りします。自分を頼りに生き抜く気概に満ちています。求められることは何でも教えようと、サケのみそ漬けから締めさばまで紹介しました。
米国の食の現場も視察しました。小学校では多様な人種に対応できる選択給食が実施され、栄養バランスを指導するマネジャーが常駐していました。病院では24時間体制で好きなときに食事を注文できるサービスに驚きました。ワシントン州のマイクロソフト本社には敷地内に26もの社員食堂があり、世界中から集まる頭脳は充実した食事に支えられていました。ここで日本食の実演を依頼され、チキン南蛮を披露。味のない千切りキャベツは食べないそうで、コールスローに代えて添えます。400食を完売しました。
都心のスーパーではキッコーマンやミツカンなど日本のメーカーが現地生産した商品も見かけました。米国では日本食に高い関心が寄せられています。医療費の高騰が社会問題化し、1977年に食生活の指針「マクガバンレポート」が発表されました。「疾患の原因の大半は食生活による」と指摘し、当時の日本人の食生活を理想型としました。以来「日本食=ヘルシー」との評価が広まり、ブームに火が付きました。情報や知識で食を選ぶ、先進国型の「頭で食べる」食生活の一例ですね。
04年にはハウス食品の招きで渡米。同社は日本ではカレールーで成長しましたが、米国での主力商品は豆腐です。肉の代替になるヘルシーなタンパク質食品として人気です。ニューヨークのキッチン用品店「ウィリアムズ・ソノマ」で豆腐料理を実演すると、昆布とかつお節のだしも大変な好評。60年代に外国人妻たちを教えた時を思うと、隔世の感がありました。