西日本新聞(2013.04.01〜) より転載
43.修行は体当たり (5/22掲載)
大学で食物学を専攻し、自宅で料理教室をしていたとはいえ、まだまだ「料理上手な奥さん」の域を出ません。もっと腕を上げたい、新しい知識を得たいといつも貪欲でした。先生についていたわけではないので、どこででも技を吸収しようと毎日が勉強です。デパート地下の食品コーナーでは、ガラス越しに職人さんの実演を食い入るように見つめました。よく観察して、自宅に帰って何度も練習するのです。
外食産業も数多く登場したころ。福岡県出身の故江頭匡一さんが創業した「ロイヤル」(現ロイヤルホールディングス)が、70年代初めに大分市内にも出店されました。ケーキのショーケースを長いこと見ていたら、マネジャーさんから声を掛けられました。「工場をご覧になりますか」。「もちろんです」とついていくと、大きなオーブンでケーキが次々と焼き上がる様子に感嘆しました。
ふわふわして、真っ白な非の打ちどころのないスポンジは私の憧れでした。矢継ぎ早に質問する私に、ベーカリーのチーフは「いつでもケーキを焼いて持っていらっしゃい」。私はすぐに家に戻ってケーキを焼き、タクシーで工場に引き返しました。チーフは私のケーキをスパッと切り「卵の味がして十分おいしい。けれど泡立てが全然足りていない。こちらを食べてみてごらん」と自分のスポンジを1切れ差し出しました。少し口に運ぶと「そんなことではだめ。ぱくっと1切れ全部食べなくちゃ」とたしなめられ、真剣に料理に向き合う覚悟を学びました。その後も「東京から指導者が来るから、一緒にどうぞ」と誘われて参加したり。今思うと厚かましくて冷や汗ものですが、「チャンスは前髪しかない」という母の言葉の通り、何事も即行動。迷いはありませんでした。
次はパン作りに夢中になりました。なめらかな生地を作るには、いかに強くリズミカルにこねるかの体力勝負。社宅アパートで毎日どったんばったん生地をこねていたのに階下の夫の上司夫人は小言ひとつ言いませんでした。アパートの階段にパンが焼けたいい香りが漂うと、各戸のドアが開いて「村上さーん、パン焼けましたー?」。わが家の台所に奥さん方や子どもたちが勢ぞろいし、みんなでいただきます。試食係に恵まれてこそ腕は上がるというものです。
44.コンテスト荒らし (5/23掲載)
パン作りに夢中になっていたころ、「ふっくらパンコンテスト」が開催されるとの情報を得ました。予選会場は北九州の小倉で、レシピ選考ではなく実際に焼いたパンを審査会場へ持って行く方式でした。私は夜明け前からバターロールやクグロフ、パネトーネなどを作り、ほかほかの出来たてを抱えて、大分駅から特急列車で小倉駅に向かいました。3歳になった末息子も一緒です。
駅に迎えに来てくれた父に息子を預け、審査会場へ。日本製粉門司工場の技術者の方々が審査にあたります。「うむ。ふくらみは、窯伸び(オーブンで焼く際の生地の伸び)の具合は、水分蒸発量は…?」といった細かなチェックをクリアし、無事予選を通過しました。本選は福岡市の福岡家政学園(現福岡調理師専門学校)でありました。審査員は料理界の最前線で活躍する人たち。結果は次点でしたが、「コンクールに出場すれば、その道の一流の方たちに会えて、直接指導を受けることができる」と悟りました。
ありとあらゆるコンテストに出場しました。1970年代、食が趣味・芸術の世界へと広く発展したころ。家電メーカーや新聞社が主催するコンテストなどに次々とチャレンジします。料理研究家の田村魚菜さんが開いたコンテストに出場したときは、そのころ知り合った生命保険の外交員の白石さん宅に子どもを預け、お向かいだった江頭さんに編んでもらったミニスカートのツーピースを着て、東京の最終審査に向かいました。帰り道の羽田空港でもコンクールのことに思いを巡らせていると、気づかないうちに大分行きの飛行機が飛んで行ってしまって真っ青、ということもありました。
気がつくと「コンテスト荒らし」になっていたのですが、いつも次点止まりでした。実直な本物志向すぎて、時代が求めた華やかな料理には一歩足りなかったようです。そんなとき、女性誌「ミセス」(文化出版局)で米・カリフォルニア州に本社があるブルーダイヤモンド社が「アーモンドコンテスト」を開催するという告知を見つけました。副賞はアメリカ西海岸旅行、表彰式はブルーダイヤモンド社の本社と魅力あふれる内容に目がくぎ付けに。これは何としてもグランプリをもらわなければ…。
45.アーモンドで栄光 (5/24掲載)
「アーモンド料理コンテスト/副賞はアメリカ西海岸旅行」の告知を雑誌で見つけた私は、準備に精を出しました。応募はアーモンドを使った新レシピを考案しカラー写真で撮影して申し込むというもの。毎日、「料理にアーモンド」「アーモンドを料理に」「アメリカに行ける料理」と頭の中はアーモンドのことばかり、念仏のように唱えていました。
1973年当時、アーモンドは家庭の食卓ではめずらしい存在です。食感を生かして粗く砕いたり、スライスやプードル(粉末)を使ったりと試作を続け、ついに締め切りの日には高熱が出てしまいました。私はガバッと起き上がり、「クリーミーなソースにしてみよう」と思いつきます。そしてどこかにオリエンタルな雰囲気を出そうと、酢豚のような甘酸っぱい味を考えました。豚バラ肉をパイナップルジュースで軟らかく煮込んだ洋風角煮に果物や野菜を添え、牛乳とアーモンドをミキサーにかけて絞ったクリームソースをかけます。名付けて「ポーク・ハワイアン、アーモンドクリーム添え」。これで応募しました。
そうするうち、夫の啓助さんが東京転勤の辞令を受けました。料理教室の生徒さんたちにもお別れのあいさつをして荷造りしていたとき、押し入れの中に最後まで残していた電話のベルが鳴りました。慌てて取ると「予選通過です。本選は東京です」
何というタイミング。東京・中野の社宅に到着して1週間後にコンテストの本選に出場です。最終審査に残ったのは10人。品川のプリンスホテルに前泊し、外出は制限され、材料の買い出しにも係が同行するという厳戒態勢≠ナした。当日の会場は味の素本社。最上階のキッチンスタジオで、応募作の調理を実演します。アーモンドを刻んだりスライスしたりして料理にまぶす人が多い中、クリームにしてしまう発想が注目を集めました。家宝にしていた古伊万里の赤絵の大皿に盛りつけました。
審査員には食通でならした俳優宝田明さんの顔も。審査員長は帝国ホテル料理長だった村上信夫さんです。日本にフランス料理を広めた方で、NHK「きょうの料理」の名物講師でもありました。そして結果発表。ついに、優勝です。村上信夫さんから「日本の主婦のレベルもここまで来ましたか」と講評をいただきました。
46.米国、心に焼き付け (5/25掲載文)
1974年に「アーモンドコンテスト」で優勝し、副賞の米国視察旅行に出発しました。主催のブルーダイヤモンド社は米カリフォルニア州のアーモンド生産者の協同組合。日本への拡販も兼ねていて、旅行には全国の料理学校の経営者や報道関係者など約200人が参加しました。出発前にはアーモンドの紹介のためテレビ番組にも出演しました。伊丹十三さんがリポーターで、歌手デビュー3年目の郷ひろみさんとも共演したのですよ。「何ともかわいい男の子」と思ったものです。
2週間の旅行の間、昼は子どもたちの世話を妹や友人にお願いし、夜は夫の啓助さんの出番です。日曜日はプールに連れて行ってくれたり、奮闘してくれました。啓助さんは私の初めての海外旅行を心配して「アメリカで迷ったり困ったりしたら、この人には電話を、あの人には相談を…」と会社の知り合いをたくさん紹介してくれましたが、私は成田空港を離陸すると同時にすっかり忘れ、期待に胸を膨らませました。学生時代から夢に見たアメリカ。よーし、何でも見て来ましょう。
飛行機はハワイを経由しロサンゼルス国際空港へ。貸し切りバスでサンフランシスコやロサンゼルスの市中を回ります。団体旅行のスケジュールの合間に、とにかくチーズケーキを食べました。私の料理教室の最初の生徒であるアンさんから聞いていたアイリッシュコーヒーで有名なホテルのカフェも訪ねます。ショッピングモールに行くと、冷凍食品のケースが果てしなく並んでいました。日本では大型スーパーは珍しかったころで、巨大なモールを見て「全部買って帰りたい」と興奮したほどです。店内をしっかり目に焼き付けて帰りました。
サクラメントのブルーダイヤモンド本社で表彰式があり、訪問着を解いて作ったカクテルドレスで参加しました。祝賀会はローストビーフを中心としたフルコースディナー。本場の味を五感すべてで記憶します。工場見学もありました。作業員たちはパンやリンゴ、チキンの入ったお弁当のかごをさげて出勤していました。素朴な家庭料理を垣間見た思いでした。一方で「最近のアメリカ人は家庭で料理を作らなくなってきた」という懸念も耳にしました。それが、やがて来る日本の姿だったとは、そのときはまだ想像もしませんでした。
47.「ミセス」でデビュー (5/27掲載文)
米国視察旅行に同行していた雑誌「ミセス」(文化出版局)の記者さんに、「うちにもいらしてください」と話していました。空港では編集長をはじめ編集部員が拍手で迎えてくれました。1週間後、編集部メンバーがわが家を訪ねてみえました。
そのころ凝っていた手作りラーメンでおもてなししました。息子たちの誕生日会の定番メニューで、生麺以外はすべて自家製。特大の鍋に豚足と豚骨、鶏がら、ネギ、ショウガなどと水を入れ、煮立ったらアクを取りながら煮詰めます。これをこせば、スープのもとができあがります。塩、しょうゆ、みその3種類のスープに仕立て、各自好みの味と具を選んで食べてもらうのです。編集部の方々に「これはおいしい、面白い!」と好評で、雑誌に特集ページが設けられることになりました。
1975年2月号の「ミセス」が出版界へのデビューになりました。タイトルは「我(わ)が家のラーメン作り」。「世はおしなべてインスタントラーメンの時代とか。確かに、手早く作れて便利なものです。しかし(中略)、私には、昔食べたチャルメラの屋台ラーメンの味が忘れられません。そこで我が家のラーメンを作ってみようと始めてみましたら、深夜ご帰館の亭主殿やおなかをすかして帰宅する子どもに大受け」…と続き、写真とレシピが紹介されました。日清食品が即席ラーメンの先駆け「チキンラーメン」を開発したのは58年。70年代には各社が参入し家庭の食卓にも浸透していきました。そんな中、家庭で手作りするという発想が意外だったようです。翌々月には雑誌「家庭画報」(世界文化社)がそっくりの企画で追随し、業界の反応の素早さに仰天しました。
その後「わたしはお料理マニア」「村上さん常備食」「村上さん生活暦」などの特集が組まれ、家族でグラビアページに出たこともありました。どこにでもいそうな主婦による食や家事の話が読者の共感を呼んだのかもしれません。それまでは遠くアメリカやフランスの街角や家庭を紹介し、憧れをかき立てる記事が多かったのです。その後、ある企画で子どもたちを誌面に出すことを辞退しました。将来を思って、普通に育てたかったのです。「あなたから子どもを外しては、魅力はありません」としばらく仕事が来ない時期もありました。
48.仕事術が整理術に (5/28掲載)
1977年に女性誌「ミセス」(文化出版局)で特集された後、「主婦の友」(主婦の友社)、「主婦と生活」(主婦と生活社)、「マイン」(講談社)などで次々と取り上げられました。「主婦の村上さん」と紹介され、料理だけでなく、家事全般の取材を受けたのです。
その一つが「食器の整理収納法」で、わが家の食器棚が特集されました。大分に住んでいたころ夫の啓助さんが設計し、トキハデパートに注文して作ったもの。3段の可変式、草花の庭園をイメージした若草色で今も福岡のスタジオで現役です。収納法として@必要な物を厳選するA生活の動線に合わせて食器を分類整理する…などと提案しました。
整理収納法は女性誌の変わらないテーマのひとつです。日本の住宅事情では、限られた空間でいかに快適に過ごすかを熟慮しなければなりません。まず「物に場所を与える」ことを考え、たんすや押し入れなど決まった収納場所に収まる必要な分だけを持つようにしました。出したら、必ず元の場所に戻します。極めてシンプル、これで散らかりません。家族全員、普段着は3組を着回しました。洗いざらしのお気に入りを着るのも、気持ちがいいものです。
情報整理も同じです。必要な情報を見極め、頭という場所にしまいます。記憶を整理するため、20代の終わりごろから紙資料はすべてファイルし、大分の文房具店で見つけたバインダーに統一しました。レシピや雑誌の切り抜き、手紙などをその日のうちに種別化し、バインダーに整理します。「整理術は仕事力。蓄積が即戦力に」。今でも一貫する私の姿勢です。家事における整理収納、段取り力の延長なのです。
パン、菓子、魚料理、中華…どんな料理記事の依頼が来ても、バインダーから資料を取り出し「はい、どうぞ」と即答。資料がなければすぐさま調べて作成し、バインダーに整理すれば、系統立てて説明できます。思えば、仕事を「できません」と断ったことは基本的にありません。「やったことがない」と思うだけです。先に仕事を設定し、そこに向かって全力で自分を追いつめるのです。そうするうちに女性誌では私を紹介するときの表現が「主婦の村上さん」から「料理研究家」と変わり、私自身の中にもプロ意識が芽生えていきました。
49.岸朝子さんに学ぶ(5/29掲載)
「料理研究家」として本格的なスタートを切ったのは、雑誌「栄養と料理」(女子栄養大学出版部)の仕事からです。1977年に「ミセス」(文化出版局)に登場してまもなく、1本の電話がかかってきました。「村上さんはミセスの専属ですか?」。「栄養と料理」の編集長だった岸朝子さんからでした。「そうでいらっしゃらないなら、お願いしてみたいのですが…」
岸さんはテレビ番組「料理の鉄人」の審査員を務められたことでご存じの方も多いでしょう。主婦の友社の元料理記者で、4人の子どもを育てながら食のジャーナリズムの世界で活躍されました。りんとして、所作や言葉遣いの大変美しい方でした。「栄養と料理」は食と健康をテーマにした月刊誌で女子栄養大の創設者、香川昇三・綾夫妻が35年に創刊。専門性の高さもあり読者の中心は栄養士でしたが、岸さんは68年から10年間編集長を務め、日本各地の食リポートなど親しみある企画で一般読者にも購読層を広げられました。
私は「こちら試験室」コーナーなど、毎月のように仕事をいただくようになりました。料理器具を数種類取り上げ、性能や機能を比較するのです。元来、研究好きな私です。圧力鍋を担当したときは圧力と沸点の関係を調べ、グラフや表を作成。のめり込んであれこれ調べて持って行くと、岸さんは「言われていないことまでやっていますが、注文されたことを納めるのが仕事というもの」とピシャリ。たしなめられたこともありました。時間や期日を必ず守る、一文は40字を超えないなど、仕事のイロハを岸さんから学びました。
仕事を待つだけでなく自分からもアタックしました。ある日、新聞に圧力鍋の新製品の広告が載っていました。鍋の写真だけで、インパクトに欠けます。販売元に電話し「料理があると主婦のハートをつかみますよ」と語り、次の広告の料理担当に採用されました。撮影はときに深夜に及び、帰宅すると家の門の前で夫の啓助さんがパジャマ姿で仁王立ちしていたことも。そのうち「栄養と料理」からまた連絡が。「次は、佐伯先生の撮影です」。佐伯先生とは当時10以上の雑誌の撮影で引っ張りだこだった料理写真の先駆者、佐伯義勝さんのことです。その佐伯先生が、わが家まで撮影に来られるというのです。
50.料理写真の精緻 (5/30掲載)
日本を代表する料理写真家、佐伯義勝さんがわが家にやって来る! 撮影の日、胸の高鳴りを抑えて玄関に立つとスタッフと機材を載せた車が現れました。1978年に東京・成城に手に入れたばかりのマイホーム。駅から徒歩15分ほど続く豪邸の町並みを抜けて川辺に下りると現れる50坪ほどの小さな家でした。子どもを置いて撮影に出なくてすむよう中古物件をスタジオに改装していたのです。佐伯先生の車はなかなかガレージに入りきれず傷が付いてしまい、恐縮しました。
撮影のテーマは圧力鍋。私はポケットにタイマーを五つ入れ、次の展開を予測しながら調理を進めます。間髪入れずに佐伯先生のシャッターが鳴ります。翌日、お弟子さんが「門扉を傷つけまして」とワインを持参なさり、さらに恐縮。私はありったけの自家製マーマレードを持ってお礼に伺いました。
佐伯先生は木村伊兵衛、土門拳の両氏に師事し社会派カメラマンとして活躍され、料亭「辻留」主人・辻嘉一さんとの出会いで料理写真に目覚めます。最初の撮影はアユの塩焼きで、辻さんが「早(はよ)う、早う。塩が立っとるうちに撮れ。料理が死んでしまう」とすごい気迫で怒鳴る中、撮影されたそうです。佐伯先生からうかがった話です。「腕の良い料理人が一気呵成(かせい)に作ったところを一気呵成に撮る。そこに勢いが生まれ、色や艶、湯気といった『シズル感』(料理の生気、みずみずしさ)が取り込まれる。その緊張感はスポーツ写真と同じ」「できたてアツアツのところをカメラに食べさせる」。
料理の一瞬の華≠とらえる佐伯先生の仕事に、私も瞬発力で応じます。その写真は隅々までピントが合い、素材から調理法、盛りつけまで全ての情報が盛り込まれ、一皿をめぐる物語と時間軸が凝縮されていました。戦後、雑誌の料理写真はハレの日の「憧れのお膳」でしたが、高度成長期以後は普段の料理が主流になり、やがて日常がハレの連続になるグルメ時代が到来します。佐伯先生はそうした時代の感性も読み取り、写真に投影されていたのです。
昨年1月、惜しまれながら84歳で永眠されました。清廉潔白で温かで妥協のない仕事ぶりは39人のお弟子さんたちに継承され、料理写真の精緻は脈々と受け継がれています。
51.料理で人生快適に (5/31掲載)
1978年に手に入れた東京・成城のマイホームでも料理教室を続けました。古くからの友人、小林妙子さんや松尾洋子さんが助手を務めてくれました。自分で案内チラシを作ってカラー印刷して駅前で配りましたが、誰一人受け取ってくれません。口コミや紹介のありがたさが身に染みました。
次第に人の輪が広がり、学生から主婦までが集まりました。当時は海外旅行といえば、欧州が主流。多くの女性が西洋料理への憧れを持っていたころで、華やかで本格的な料理を皆でせっせと作ります。ソーセージや、牛タンを香辛料入り塩水に1カ月漬け込んで作るコーン・ド・タン、モクモクと煙で薫製にするベーコンなど下準備だけでも2週間ほど費やしました。私は今のようには電子レンジに熟達しておらず、マーマレードも大鍋で気長にコトコト。手間ひまかけた経験をもとに、後にスピード料理を考案することになったのです。物事を簡略化するには、土台となる経験と蓄積がなくてはうまくいかないものです。
雑誌のグラビアページも担当し、これも凝ったメニューばかりでした。スフレの特集ではふくらみを長く保てるよう、子どもが寝静まった後にテストを重ねました。夜が白々と明けるころ、納得のいくレシピが完成。家族の朝ごはんと弁当も用意して、少し仮眠をと横になると│。「先生、先生!」。枕元で声がします。料理教室の生徒さんでした。「みなさん集まっていますよ」。時計を見ると、もうお昼。ぴくりとも動かずに眠りこけている私を見て、「まさか」と息を確かめに来たこともありました。
教室では料理の傍ら、ふきんの洗い方から鍋磨きまで何でも伝授しました。桐島洋子さんのエッセー「聡明(そうめい)な女は料理がうまい」(76年)がベストセラーになっていました。シングルマザーで自立した女性として注目され、家事を賢く楽しんでこなす姿が共感を呼びました。
最近は「花嫁修業」という言葉も聞かなくなりましたが、結婚する、しないにかかわらず、料理に始まる一通りの家事ができれば人生はずっと快適に過ごせます。もちろん男性にも言えること。料理とは人が生き、人を生かす力であり、自立の第一歩というのが私の持論です。