西日本新聞(2013.04.01〜) より転載
6.「花と龍」のモデル (4/6掲載)
私は1942年、福岡県若松市(現北九州市若松区)で生まれました。家は現在の若戸大橋のたもと辺りにありました。いくつも裏木戸があり、人が出入りしていました。曽祖父・大島傅七は愛媛県・今治から若松へ移って石炭商として財をなし、回船業を営む「大島商店」を創立しました。ごんぞう≠ニ呼ばれた港湾労働者たちを束ね、火野葦平さんの小説「花と龍」に出てくる回船問屋のモデルになった人です。
傅七には子どもがなかったため養女に祖母松枝を迎え、祖父虎吉が婿養子に迎えられました。その長男が私の父大島虎雄です。祖父は40歳のとき結核で亡くなりました。父が12歳の時です。大島商店は解散し、その後は所有する財産を切り崩しながらの生活になったといいます。
父は子どものころから絵をかくことが大変好きで、若松から福岡市の大名にある山本文房堂へ画材を求めて通ったそうです。美校(現在の東京芸術大学)に進みたかったようですが、「絵描きになるなんて遊び人のすること」と周囲の反対が強く、慶応大の経済学部に進みました。
将来、不動産の管理に役立てるためだったそうです。物静かな人でしたが大変ダンディで、映画「カサブランカ」の主演男優ハンフリー・ボガードに似ていました。私は今、父が20歳のころに描いた自画像を仕事場の壁に掛けていますが、なかなかのハンサムボーイです。背広の着こなしも板についていました。大学卒業後は有楽町で会社員をしていて「銀座のダンスホールにも通っていた」との話もありました。
その銀座を歩いていた時、ばったり母正子に出会ったそうです。母はもともと若松で海運業をしていた吉田家の出身で、当時は東京に住んでいました。父とは顔見知りで、銀座の三越近くで久しぶりに出会い、「あら、大島の坊ちゃんだ」と思ったと後で聞きました。母も洋服をさっそうと着こなす大正モダンガールでした。ドイツレストラン「ケテルス」や帝国ホテルで食べた料理の話を語って聞かせてくれたものです。
母の姉の1人は婦人公論の記者をしていて、母と銀座を姉妹で歩く姿が撮影され、雑誌「毎日グラフ」の表紙にもなりました。この写真をスケッチした父の絵がとてもしゃれていて、これもしばらく壁に飾っていたんです。
7.津屋崎に疎開 (4/8掲載)
父と母は結婚後しばらくして若松の家で暮らすようになりました。父の実家の回船問屋はすでに解散していましたので、父は持ち家の管理を仕事にして暮らしていました。
やがて4歳上の姉庸子が生まれ、次女の私が生まれて間もなく、2人一緒にはしかにかかったそうです。姉は髄膜炎を併発し、幼くして亡くなりました。写真で見る姉の面影は、目のぱっちりした愛らしい女の子です。2歳下の妹節子が生まれた1944年に、父は2等兵として山口県の海岸防備へと出征し、残る家族は戦火を避けて福岡県津屋崎町(現福津市)に疎開しました。この年の6月、北九州では製鉄所のある八幡を中心に大規模な空襲があったのです。米軍の爆撃機B29が陸上基地(中国・成都)を拠点に行った初めての日本本土空襲で、被害は小倉、戸畑、門司、若松にまで及んだといいます。
津屋崎の家は結核で亡くなった祖父が療養のために建てた別荘でした。祖母と母、私と妹の女だけでの暮らしです。雨戸を開けると海岸が広がっていて、縁側の下には祖父が釣りに使ったという小舟がありました。私は白いパラソルを差した母に手を引かれて海岸の砂浜を歩いたり、おしろい花を摘んでままごとをして遊びました。白い砂浜と青い海岸の風景が今でも浮かんできます。
終戦後、母は訪問着をコメに交換したりして食料を確保し、近所の編み物や洋裁をしていくばくかの収入を得ていたようです。母はとてもおしゃれで清潔感のある人でした。もとは銀座を闊歩していたモダンガールです。勝ち気で気丈で優しくて、片頭痛持ちの魅力あふれる美人でした。選挙の立会演説を聞いている最中に挙手をして堂々と意見を述べ、周囲から「まあ、まあ…」と引き留められたりもしたとか。敬虔なクリスチャンでもあり、一家のうちで母だけが教会へ行っていました。
教会のバザーでは、米国から届く援助物資のコットン生地を使って、花柄のワンピースを縫って出品していました。時には、私たち姉妹の衣類として母が自分で購入してくることもありました。援助物資の中には中古品ながら手触りの柔らかなウールのコートやガウンもあり、衣類から匂い立つラベンダーの香りに米国への憧れを感じたものです。
8.母を喜ばせたくて (4/9掲載)
出征していた父が戻り、福岡県津屋崎町(現福津市)で一家そろっての暮らしが始まりました。私たち姉妹は毎日のように、ままごと遊びをしました。手先の器用な父が、粘土でミニチュアのティーカップやスプーンを作ってくれました。風呂のたき口に埋めて焼き、色を塗るという本格派。最後に厚紙で作ったドールハウスに入れてくれ、窓には手縫いのカーテンまでかかっていました。
5歳ごろにはおつかいにも行っていました。母が言う材料を覚えて買うのです。「さち子ちゃんはしっかりしとらっしゃる。物を選んで買いなさる」と言われたそうです。勝手口を入ると土間があり、しちりんやおくどさん(かまど)で煮炊きをしていました。私は台所に興味津々で勝手に料理をしていました。不思議なことに母はそんな姿を止めるそぶりもなく、私は研究熱心なあまりしちりんに近寄りすぎて前髪をチリチリに焦がしたこともありました。
母が寝込んだときは蒸し器で冷やご飯を温めて枕元に持って行きました。料理はあまりできない母でしたが、若いころ東京でグルメな生活を送っただけに舌が肥えていて、子ども相手にもはっきりと意見を言いました。いつだったか、ゆでたジャガイモでオムレツを作ると、母は「すごくまずいわ」と一言。それ以上手をつけず、ご飯に梅干しとノリでさっさと食事を済ませてしまいました。
私はがぜん意欲が湧きました。「母に喜んでもらいたい」との一心で料理の腕を磨き、当時人気の雑誌「少女クラブ」にこんな投稿もしました。「庭に夏ミカンがなりました。重曹をつけると甘くなり、コンポート(砂糖漬け)にしてもおいしい」…。腕を上げてくると、来客があるたび母は「この子が作るポテトチップスは絶品なの」「この子のマーボー豆腐、最高なのよ」と自慢し、私は張り切って台所に飛んでいきました。
そんな母でしたが、温かいお弁当の記憶があります。母娘ともに寝坊した日、私はお弁当なしで小学校に行きました。お昼時、教室の窓を見やると、あぜ道を急ぎ足でやってくる母の姿が。そして手渡されたお弁当を開けると、炊きたてご飯の上にほかほかのオムレツがドンと置いてありました。こたえられないおいしさでした。
9.ピアノを習いに (4/10掲載)
福岡県津屋崎町(現福津市)に住んでいたころ、母は父とけんかすると私と妹を連れて地元の有力者だった占部太三さん、文香さん夫妻の家に駆け込んでいました。占部さんには2人の娘がいて、妹の妙子さんは私より一つ年下。毎日飽きずにままごと遊びをしました。妙子さんは私が料理研究家としてデビューしてから、長く助手を務めてくれた親友です。占部家には当時一般の家にはほとんど無かった電話もあり、緊急の用があると拝借に走っていました。
私は津屋崎小学校に入学して音楽部に入りました。十数人の部員が廊下に並べたオルガンを順番待ちして弾きました。上達すると講堂でピアノを弾けるのです。熱烈にピアノが好きになりました。近所には後に初代北九州市長を務められた吉田法晴さん一家も住んでいました。吉田さんは津屋崎保育園の設立者でもあり、妹はここの卒園生です。吉田さんの長女つね子さんは、ピアニストで教育者の佐藤博子先生の門下生でした。紹介を受けて、私も福岡市の佐藤先生の教室へ通い始めました。
一人で津屋崎から西鉄宮地岳線に乗り、貝塚駅で福岡市内電車に乗り換えて大名町の教室に行きました。すぐに佐藤先生に教えてもらえるのでなく、お弟子さんに見てもらいます。レッスンが終わるのはお昼どき。母に「岩田屋の大食堂で50円のカレーライスを食べるように」と言われ毎回食べていましたが、一人で緊張して、しかも食後に延々と電車に揺られるのですから、ときどきおなかが痛くなったりもしました。
練習は小学校のピアノやオルガンでしました。日が暮れるまで練習していたある日、母が心配して占部家に走って小学校へ電話をしたそうです。「4年生のさっちゃんはとっくに帰りましたよ」との返事に「すわ、誘拐!」と母は動転し、町内中に助けを求めて大騒動になりました。ひょっこり戻ってきた私は、大目玉を食らいました。
これほど娘の命を案じてくれた母でしたが、庭にヘビがしゅるしゅると這(は)っているのを見た途端、キャーッと悲鳴を上げて私と妹を放って勝手口に駆け込み、引き戸をピシャリと閉めてしまったこともありました。母親の仰天ぶりに泣き叫んでいた私と妹は、そのまま庭に放り出された次第です。 (聞き手 平原奈央子)
10.「優等生」の転校 (4/11掲載)
父は一時会社勤めで単身赴任に出ましたが、間もなく会社を辞め、実家が所有する不動産を管理しながら福岡県津屋崎町(現福津市)の家で浪々と暮らしていました。永遠の文学少女だった母は小説を書いたり、蓄音機でブルースを鳴らして畳の部屋で父とダンスをしたり…。父は女優桑野通子や高峰三枝子が銀座のクラブにいたころの話をしたりして、浮世離れした暮らしぶりでした。
好きな絵を描いてばかりの父を見かね、一家でお世話になっていた地元の有力者、占部太三さんが「都会で画材店でも開いたらどうです」と忠告したそうです。「都会に出ないと、祥子ちゃんの結婚相手もうまくみつからないよ」とも言われたとか。まだ私は小学5年生でしたが。
私たち姉妹と祖母は津屋崎に残り、両親は福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)に転居して中央町の商店街のはずれに「大島画材店」を開きました。八幡製鉄所がある企業城下町です。工場の煙突からはもうもうと煙が上がり、活気に満ちていました。お客さんたちは、明るくおしゃべり好きな母を目当てに来ていました。製鉄所の美術部の人たちもよく来ていましたね。その後、母恋しさにねだりにねだって八幡で一緒に住めることになり、私は八幡小学校に転校しました。津屋崎小学校の先生が「大変な優等生」と通信簿をかさ上げしてくださったようで、八幡小の級友たちは「大秀才がやってくる」と構えて待っていたそうです。なんのなんの、都会≠フ秀才さんたちにはかないませんでしたよ。
中央中学校に入学すると、1クラス60人、1学年に10クラスもありました。このころには家の食事作りを一手に引き受け、自分と妹の弁当も作っていました。食材は中央町の市場と、一番品数がそろっていた製鉄所の購買会で調達。買い物のついでにラムネを飲んでいました。中学2年のとき、新聞で「サントリーカクテルコンテスト」の記事を見つけ、私は赤玉ポートワインにミルクを混ぜたレシピで張り切って応募しましたが、見事落選。レシピ開発のため試飲を続け、頬をぽうっと赤くしていたのに母は何にも言いませんでした。すごい人ですね。私は料理だけでなく掃除も洗濯もアイロンがけも大好きで、「暮しの手帖」を愛読してこれまた研究に励んでいました。
11.家族をつなぎたい (4/12掲載)
北九州市の八幡に画材店を開いた両親でしたが、すれ違いが重なり、いさかいが絶えませんでした。私は両親が心配で、どうなっているかと学校の帰り道にそーっとお店をのぞいては「やれやれ無事らしい」と、ほっと胸をなで下ろしたものです。だから家族のごはんは一生懸命作りました。母のことも父のことも大好きですから、何とか喜ばせたいと思ったのでしょう。二人とも心から子どもたちを愛してくれました。
父がぷいっと出ていくと、夜道を追いかけていきました。昔は道が暗くて、線路沿いで石ころにつまずいて転んだことも。そこに電車が走ってきて、ぱあーっと光が通り過ぎて行きました。夫婦は仲良くあった方がいいですけれど、仲むつまじい両親だったら今の私はなかったかもしれません。何はともあれ自己責任で進もうという覚悟ができていきましたから。家族の食事を作りながら、食べること、食べさせることは、命をつなぐ一番の作業だということを子どもながらに身に染みて感じていました。おいしいものを作ると家族が集まり喜びます。いつも家族をつなぐことに一生懸命で、勉強はあまりやらず、ひたすらおさんどん(食事の支度)をやっていました。
それでも、割合に学校の成績は良かったと思います。家事の研究や時間管理も勉強には十分応用できたのでしょう。八幡製鉄所のお膝元にあった中央中学校は1学年660人ほどのマンモス校で、どの先生も筋の通った教育ぶり。特に白金正利先生はシベリア抑留を経験された方で、数学を徹底的に鍛えてくれました。毎朝始業の前にミニテストがあり、すぐに採点してくれました。先生がガリ版でテスト用紙を作るのを手伝ってもいました。私は常々「料理は計算で、あるレベルまではできる」と言っていますが、それは数学の世界に誘ってくれた白金先生の影響かもしれません。クラス全員でたびたび先生のお宅におじゃまして、うどんを作ったり、ぜんざいを煮たり、奥さまの手料理もいただきました。
ほかに中学時代の忘れられない食べ物といえば、「八幡木村家」のロールパンです。ハムとポテトサラダがはさんであって、世の中にこんなにおいしいものがあるのかと感心していました。運動会など特別な日だけに自分へのご褒美に買うパンでした。
12.高度成長の入り口 (4/13掲載)
小学校から続けていたピアノは、転居のため福岡市の佐藤博子先生の教室から福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)の江頭恵美子先生の教室に移りました。先生のご実家である「江頭酒店」の脇から2階に上がるとグランドピアノが2台置いてあり、たくさんの生徒であふれていました。教室に来た順番にレッスンを受け、時間もまちまちです。一生懸命レッスンを受けていた私はしばしば時間が長くなったようで、「大島さん(私)の後に入るとずいぶん待たされるから、一歩でも先に入らなくては」とうわさされるほどでした。
自宅にアップライトピアノを購入してもらい、ますます熱を上げて練習していました。中学校では音楽教師の山口先生から学芸会のたびにピアノ独奏の機会をいただきました。山口先生のお嬢さんは私と同じ江頭先生の教室に通っていて、「生まれついてのピアニスト!」と息をのむほどの腕前。「私もあの域に達しなければ…」と思っていました。
理科系科目も好きでした。いとこの大島恒彦さんが九州大で地質学を専攻していて、化石の発掘に連れて行ってもらったこともあります。専門家の恒彦さんの指導で感想と解説を書き、手先の器用な父が標本箱まで作ってくれました。これを学校に提出すると理科研修会で入賞して、うれしかったですね。今思えば専門家の全面的な協力があったのですから、入賞は当たり前ですよね。
このころ世間では冷蔵庫や洗濯機、トースターなど日本製の家電製品が登場してきました。世は神武景気。1956年には経済白書が「もはや戦後ではない」とうたいました。日本の高度成長は物づくりに支えられていきます。「所得倍増計画」を打ち出した池田勇人首相自身がフランスのドゴール大統領を訪問した際、日本製トランジスタラジオを手土産にし、「トランジスタセールスマン」と呼ばれたのは有名な話です。
欧米に追いつけ追い越せと踏ん張り続けた日本人の切実な夢は、何より豊かな食生活でした。ごはんとみそ汁を基本とした質素な食卓に肉が上がるようになりました。わが家もそうであったように肉を食べることは大変なぜいたくでした。肉はうま味の塊です。「肉を食べることはいいことだ」との考えが広まり、後の生活習慣病のまん延につながっていくのです。
13.すたこらさっちゃん (4/16掲載)
福岡県立八幡高校に入学したのは、1957年の春です。このころには両親のいさかいも収まり、家は平穏を取り戻していました。入学後間もなくの保護者説明会で「進路を決めるように」と指示があり、母が驚いていました。進路指導の担当は大六野(だいろくの)勤先生。すっきりと理論立てて話される先生で、長く公私ともにお世話になりました。熱心なクリスチャンで、福岡雙葉高校の校長を務められた後に勇退されました。
八幡高校はもと旧制中学ですから、学年の3分の2は男子生徒で、1〜6組が男子、8〜10組が女子クラスでした。7組だけが共学で理系大学の志望者が集まっていました。3年生になると選択科目に合わせて教室を移動します。1クラス60人で10クラスもありますから、さながら民族大移動の様相を呈しました。
いつだったか、大六野先生に資料整理の指名を受けました。何を頼まれてもすぐに飛んでいき、ささっと片づけてくるので、「すたこらさっちゃん」というニックネームがつきました。八幡市民会館完成のこけら落としで、八幡高校混声合唱団の伴奏もつとめました。何かと奔走するのです。髪をお下げにして自分でアイロンをかけた服を着て、いつもちょっと気取っていたようです。父は美人の妹と比べて「祥子は面白い顔をしている」なんて言っていましたが、母が「あら、この子はおしゃれがとっても上手なんだから」とフォローしてくれましたね。
料理にはますます熱を上げ、弁当を作っては自慢して友達と分けっこをしていました。一般家庭にも急速に家電製品が普及し始めていて、わが家も洗濯機を購入し、台所は土間から板張りのフローリングになりました。続けてガスレンジやガスオーブンも入り、うれしくてグラタンを焼いたりしたものです。
生涯の友となる松尾洋子さんにも出会いました。後に私が料理研究家デビューしたときタッグを組んでくれ、助けてくれました。八幡高校の12期卒業生は今も親睦の会があり、同窓会「誠鏡会」の12期会代表幹事は松尾薬品産業代表の松尾孝三郎さん。歯科医師の瀬尾義一郎さんは誠鏡会本部副会長で12期会のお世話もされています。藤城昌三さんは関東誠鏡会顧問、観世流能楽師で重要無形文化財の津村禮次郎さんも同期生です。
14.まばたきもせず (4/17掲載)
1960年春に福岡市東区の福岡女子大に入学しました。前身は大正時代に日本初の公立女子専門学校として開学した「福岡女専」で、私の叔母たちや高校3年のときの担任・岸弘子先生も卒業生でした。私は建築学を学びたいと考えたこともありましたが、やはり料理への興味が尽きなかったのでしょう。福岡女子大家政学部で食物学を専攻しました。
大学生活は大忙し。授業のほかに大学の合唱団の伴奏者をつとめ、週4日は家庭教師のアルバイトです。小学校時代の恩師から家庭教師のお話があったとき、父は「アルバイトなんかしなくていい」と難色を示しましたが、母が「どのくらい働けばお金が稼げるか分かるようになる。稼いだ金額に同額のお金を足してあげるので、それを小遣いに充てるといい」と助け舟を出してくれました。大学から飛んで帰り、家族の夕食の支度をし、家庭教師に励む。生徒さんたちに手作りのお菓子も出していましたね。
アルバイトでためたお金で高校時代からの親友、松尾洋子さんと日本中を旅行しました。北海道旅行のときは、6千円の周遊券で1カ月も回っていたのです。旅から戻ると真っ黒に日焼けした顔のまま、お見合いもしていました。
大学から国鉄(現JR)香椎駅までの道はまだ田んぼばかりでした。遠くからでも駅に汽車が入ってくるのが見えるのです。あの汽車に乗りたい!と走りに走って駅員さんの通用門からくぐりぬけ、プラットホームに滑り込みセーフ。息を切らせて汗をぬぐいます。手には夕飯の食材を提げていました。駅前に農家の人の露店があり、たくあんを買ったときは強烈な臭いが車内に充満してへきえき。ジャム用に買ったイチゴを網棚に置いていたら、新聞紙の包みの中でつぶれてすぐにカビが生え、使いものになりませんでした。
そのころ、テレビで「きょうの料理」や「キユーピー3分クッキング」など料理番組が始まりました。女性の家事労働だった料理は、好奇心を喚起する「知的な楽しみ」ともなっていったのです。私はもう、まばたきもせず見ていました。材料も切り方もそっくりまねをして、その日の夕食に出すのです。20歳になるころには、家庭料理はほぼできていたと思います。
15.暮らしの先達たち (4/18掲載)
両親が北九州市・八幡の中央商店街で開いていた「大島画材店」は、社交的な母の魅力で地元のサロンのようになっていました。家のことに手が回らない母は「(家事を)やらないと勘が鈍るわ」なんて言いながら、「この子は上手だから」と私をその気にさせるのです。料理や掃除のほか、季節の行事など生活の常識や知恵を教えてくれたのはお手伝いさんたちでした。
「ねえや」「ばあや」と呼んでいた母たちの時代とは違い、「お手伝いさん」は主従関係ではなく契約を通して働く女性の労働形態の一つでした。全国各地に「派出婦会」や「家政婦紹介所」といった組織ができていたようです。一般家庭の女性が家計の助けに働いていて、私の家には大工さんの娘さんや八幡製鉄所の作業員のお母さんなどが来てくれました。夫に先立たれた人や放蕩(ほうとう)者の夫の代わりに働く人など苦労を重ねた人もいて、しっかりと心(しん)が通った働き者の人が多かったですね。たくさんの家に出入りしていた人もいましたが、決して他の家のことは話さないという仁義を守っていました。
家では「おばさん」と呼んで身内同然の存在で生活の柱でした。料理上手な人には、ぬか床の作り方や魚のおろし方、漬物などを教わりました。掃除の仕方も「拭き掃除の最後に窓枠を拭き上げるといい」など道具から順序まで細かく教わりました。八幡では製鉄所のばい煙で窓枠に真っ黒なすすがたまりやすかったのです。家事だけでなくお礼の仕方や冠婚葬祭など世間の習慣までを教えてくれる暮らしの先達たちで、お嬢さま育ちで社会常識に疎かった母よりずっと頼りになる存在でした。中学を卒業したばかりの若い娘さんが来ると、私が家事を教えることになりました。ときどき、クリーニングに出したシーツや七五三のときの着物を家に持って帰ってしまうお手伝いさんもいて困った記憶もあります。
このころ作家の谷崎潤一郎さんは週刊誌「サンデー毎日」に、お手伝いさんたちの人間模様を描いた連載「台所太平記」を掲載し、後に豊田四郎監督が映画化しました。九州も舞台となり森繁久弥さんや淡路千景さん、乙羽信子さんなど豪華キャストでした。その後舞台化もされ森光子さんや越路吹雪さんが出演。大変共感と関心を呼ぶテーマだったようです。
16.スパゲティ大人気 (4/19掲載)
大学3年生になると「集団給食実習講座」が始まりました。基礎理論を学んだ後は週に1度、「大炊」といって給食など大量炊飯の訓練をしました。当番班が献立を作成し、学内でチケットを販売して学生たちに食べてもらうのです。
私にも当番が回ってきました。さて、メニューは何にしよう。新聞を読んでいたら、食通で知られた映画監督の山本嘉次郎さんがクリーム状のスイートコーン缶詰を使っているのを発見しました。世の中にこんな缶詰があるなんて。私は手を尽くして購入し、ミートボール入りのクリームコーンシチューを「大炊」メニューにしました。これにサラダとパンをつけたシンプルな献立でしたが、チケットは完売しました。
このとき実習室で見た大量調理ができる器具に魅了され、私はひらめきました。わが家用に買ったオランダの赤玉エダムチーズ1・5`を自動グレーター(おろし金)にかけてみたのです。「これで一度でおろせるわ」と胸をときめかせたのに、チーズには水分蒸発防止のワックスが塗られていることを知らず、取り除かずにそのままひいてしまいました。その後長らく、ワックスの赤いまだら模様が点々と交じった粉チーズを食べることになりましたよ。
粉チーズといえば、こんなこともありました。3年生の秋の学園祭で食物学専攻の学生はバザーの模擬店を担当しました。福岡女子大の前身「福岡女専」は福岡市の須崎裏町(現在の天神5丁目)にありましたが、戦時中の空襲で全焼し、1951年に現在の同市東区香椎に移転。私の在学中はまだ木造校舎でした。バザーを全力で盛りあげたい。同志4人と、そのころ最先端の流行食だったミートソーススパゲティを作ることにしました。今の西鉄福岡(天神)駅にあったスパゲティ専門店に味の偵察に行き、レシピを研究しました。結局はゆでた麺をマーガリンで炒めてソースをかけるくらいの代物でしたが、学園祭一の売り上げを計上したのです。
食材費を差し引いても利益が残ったので、一緒に忙しく働いてくれた下級生たちへレースのハンカチを贈り、ねぎらいました。ところが、他の模擬店の下級生たちからブーイングの嵐が起きました。スパゲティ大人気、されど、やれやれな学園祭でした。
17.衣装新調大作戦 (4/20掲載)
福岡女子大学では合唱団「クール・デ・フルール」の伴奏者も務めました。顧問は教養課程で音楽の授業を担当されていた石井幸子先生。東京芸大声楽科を卒業された、とてもおしゃれでモダンな方でした。
3年生になると主軸となって動きます。全員で相談し「ひとつ、斬新な衣装を作ろう」と意見がまとまりました。でも、費用はどうしよう。私は一計を案じました。ダンスパーティーを企画してチケットを売り、その利益で衣装代を捻出しようと思いついたのです。それまで大学のダンスパーティーといえば、暗幕を閉めきった講堂で九州大のジャズバンドの演奏をバックに踊っていました。せいぜい、ほこりの舞い上がる中で木の床を踏み鳴らすくらいのものです。ここはひとつ、華やかにいきたい。私は中洲のキャバレー「金馬車」を借り切ってしまいました。
会場がネオンきらめく繁華街のキャバレーときましたから、チケットは売れに売れました。電車通学で一緒だった九大生などあらゆるつてを頼って宣伝し、600枚を売り切りました。これが開催前に先生方の耳に入ってしまったのです。学長は「学外で、しかもキャバレーで開催とは何事か」とご立腹です。しかし、ここで引き下がっては全てが台無し。平謝りしつつ、「前金を入れてしまったし、今更キャンセルではキャバレーにも多大な迷惑がかかります」とひたすらお願いし、今回限りの約束で開催を認めてもらいました。パーティー当日は大盛況。休む暇なく踊り続ける羽目になりました。
晴れて新調なった衣装を着用し、福岡大の男声合唱団「メール・ハーモニー」の定期演奏会にも賛助出演しました。曲は森脇憲三さん作曲の「蛍草」など。会場は福岡市の渡辺通にあった電気ホールです。福岡に合唱ブームが巻き起こったころで、西南学院大のグリークラブや九大の「コールアカデミー」なども一緒にKBCでテレビ出演もしました。
このときテレビ局の食堂で食べたのが「キューカンバーサラダ」です。冷やしたキュウリを縦に十文字に切り、長さを4等分して皿にうずたかく積みあげてありました。これに牛乳でゆるめたマヨネーズをたらーりと回しかけてあり、盛りつけといい、さわやかな味といい、ぞっこんに。わが家の定番メニューになりました。
18.脱脂粉乳の思い出 (4/22掲載)
私たち食物学専攻の生徒は大学3年で大量炊飯の実習を経験し、学校や病院、養護施設の給食室へ実習に行きました。小学校の給食室では大きな釜にお湯を沸かし、脱脂粉乳のミルクを作りました。土間に置いたミキサーで脱脂粉乳と湯を混ぜ、はしごに上って釜の中にざーっと流し入れ、砂糖も加えます。高温と蒸気の中で、なかなか溶けないミルクをかき混ぜて汗だくになりました。
脱脂粉乳はバター用の脂肪を抜いた後の牛乳を乾燥させたもので、戦後ユニセフなどから供給されました。米国の余剰物資でもあったのです。パウダー化の技術が発展途上だったためか、決しておいしいといえる味ではありませんでした。「鼻をつまんで一気飲みした」と言う人もいるでしょう。それでもカルシウム値をはじめ栄養価は優秀だったのです。現在は「スキムミルク」と呼ばれ、味も格段に向上しています。
学校給食は1952年から全国の小学校で実施され、脱脂粉乳が定番の献立になりました。私が実習に行ったころの63年には国庫補助の対象になり、「義務教育学校の全児童生徒にミルク給食を実施する」との方針が出されます。一方で、脱脂粉乳に大腸菌が混入する食中毒が発生し、各地の母親団体を中心に牛乳への切り替えを求める「ミルク論争」も起こりました。小麦も大量に輸入され、この年、パンに加え麺類も献立に加わりました。政治的な思惑もあったでしょうが、カルシウムと炭水化物の摂取が戦後の子どもたちの栄養状態を改善したのは確かです。体格も向上し、免疫力がついて感染症の予防にもつながりました。
養護施設に行くと、大変歓迎されました。さまざまな事情で両親と暮らせない子どもたちが生活する場所です。先生方は「一緒にのり巻きを作りましょう」と提案されました。普段の献立を聞くと、当時の施設の給食規定では卵は1人当たり2分の1個。錦糸卵にしてパラパラとご飯にかけるくらいしかできません。制限された食事の中で子どもたちは育ち盛りの日々を送るのです。卵を存分に食べられる家庭も多くなっていたことを考えると、やりきれずに涙が出てきました。
「健康優良児」の表彰もありました。まるまると元気な子どもは戦後の食糧事情改善の指標であり、希望でした。
19.白川研究室で学ぶ (4/23掲載)
福岡女子大学で4年生になると、卒業論文に取りかかりました。食物学専攻の教授陣は村井典男先生、支倉さつき先生、中野和子先生、平松園江先生など多彩な顔ぶれでしたが、私は白川正治先生の研究室に入りました。先生の専門は生化学で、アミノ酸の分析を得意とされていました。1952年には「結晶カタラーゼに関する研究」で日本農芸化学賞を受賞され、72年から4年間福岡女子大の学長も務められました。清廉潔白な方で学生たちに人気があり、研究室入りも狭き門でした。
私はもともと化学が好きで、料理に実験の面白さも感じていました。研究室では主にアミノ酸の分析をしていました。体内のタンパク質は20種類のアミノ酸からできています。幼児は9種類、大人は8種類を食物から摂取することが不可欠で、「必須アミノ酸」と呼ばれます。必須アミノ酸はバランスよく摂取しないと有効に機能しないため、「アミノ酸の桶(おけ)」とたとえられます。定量に達しないとそこが穴となり、いくら桶を満杯にしようとしても流れ出していくのです。
研究室には8人の学生がいました。ある人は豆に毎日水をやりモヤシを収穫して、うま味成分のグルタミン酸(アミノ酸の一つ)を測定するなど地道かつ緻密な実験の日々でした。私は「アミノ酸薄層クロマトグラフィーの研究」を卒論のテーマとしました。「薄層クロマトグラフィー」は当時新しかったアミノ酸の展開(成分分離)法で、シリカゲルやポリアミド樹脂などを薄く張ったガラス板に溶液を落として反応の進行状況を確認していきました。克明にデータを蓄積していく姿勢を身に付けたことは、今の仕事に生きています。このときペアを組んだ船津絋子さんは生涯の親友になりました。
夏休みも連日、研究室にこもって実験と測定を続けました。お昼時には食事の準備の陣頭指揮を執りました。早朝に香椎駅前の市場でキュウリやピーマン、トマトなど野菜を購入しておき、昼前に現れるパンの売り子さんから食パンと牛乳をゲット。実験用ガスバーナーに石綿付きの網を置いてパンを焼き、刻んだトマトやキュウリやピーマンをマヨネーズであえてパンにのせるのです。来る日も来る日も、このオープンサンドを食べて卒論を書き上げました。
20.まぶしいアメリカ (4/24掲載)
大学時代、映画で見る欧米の姿に憧れたものです。アラン・ドロンが主演した「太陽がいっぱい」「若者のすべて」などに夢中になりました。テレビでは米国のホームドラマ「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などが人気でした。広く清潔なキッチン、真っ白なエプロン、とかしつけた髪、きれいに磨かれた靴…。すべてに目を奪われ、「アメリカの豊かな生活」は当時の日本人にとってまぶしいほどでした。1963年には味の素と日本ケロッグ社(米・ケロッグ社が100%出資)が提携し、コーンフレークを発売。日本の朝食に米国の風景が流入し、ブームを呼びました。
「ぜひとも英語を勉強したい。日本を脱出したい」と思った私は、後輩の英文科の学生だった安楽洋子さんたちにくっついて、米軍キャンプへ英会話のレッスンへ通い始めました。大学近くの国鉄(現JR)香椎駅から雑餉隈駅(現南福岡駅)まで行き、歩いて基地へ向かいます。電車に乗る前に香椎駅前に唯一あった喫茶店で、先輩ぶって後輩たちにホットドッグをごちそうしたりもしていました。まだ電子レンジもない時代ですから、パンは蒸し器で温めてあり、これにキャベツのケチャップ炒めと魚肉ソーセージを挟んだプヨプヨのホットドッグでした。
初めのころは基地の付属施設だったインターナショナルスクールの先生の集まりに伺っていましたが、そのうち基地内の米国人家庭におじゃまするようになりました。みんなでテーブルを囲み、奥さんといろんな話を交わすのです。後輩の安楽さんは積極的で、おしゃべり上手だったので英語の上達も早かったですね。私は家のインテリアや食器一つにも心奪われていました。忘れられないのは、大きなマグカップに半分だけ入れてくれた温かいココアです。へえっと思いました。確かに温かさを感じられる時間を考えると、このくらいでちょうどいい。なみなみと注ぐのは無粋なのだなと教えられました。ビスケット一枚にも「アメリカの香りがする」と、バターの香りを胸いっぱいに感じていました。
その後、米国留学を画策しましたが父親に見つかってしまい、断固反対され頓挫してしまいます。「どうしたらアメリカに行けるだろう」。私は次なる策を練っていました。
21.夢の外資系企業へ (4/25掲載)
大学4年生になると、就職活動も始めなければなりません。当時でも、女子大生の6割ほどは就職していました。女子大生の就職先といえば学校の先生や行政職員、あるいは大学の助手や教授の秘書などが主だった時代です。しかし、私は「ぜひともアメリカに行きたい」と強く思っていたので、これを実現できそうな外資系の企業を志望していました。
そうしたある日、英文科の学生向けの求人で、世界初のキャッシュレジスターを開発した米国の老舗コンピューター会社「NCR」の募集告知を見つけたのです。私は家政科でしたが、そんなことは気にしません。英語の基礎は身に付けていましたし、情熱では誰にも負けないつもりでした。願書の締め切り日は、関西の製薬会社へ見学に出かける日でした。引率の教官に何と言い訳をしたか覚えていませんが、友達にばれないように見学を欠席し、一人大学に残っていそいそと学生課を訪ねました。
すると「NCRは東京から来る試験官の都合で、今日に試験日が繰り上がっていますよ」と言うではありませんか。私は驚いて、「そんな。今日が願書の締め切り日と書いてあったのに。試験日だなんて知りませんでした」と訴えると、学生課の職員は、なだめるように「あなたは英文科ではないので、まず無理でしょう」と言うのです。
私は泣きながら最寄り駅の国鉄(現JR)香椎駅まで走りました。列車に飛び乗って博多駅まで行き、プラットホームから母に電話して「かくかくしかじかで試験に遅れる旨、会社(NCR)に伝えて」と頼みました。特急電車に乗り換えて小倉駅へ急ぎ、会場に走り込むと、同じ福岡女子大や九州大、西南学院大などの学生が試験を終えて出て来ていました。顔見知りの学生に鉛筆と消しゴムを借り、私は別室で一人で試験を受けることになりました。
そして5人枠の面接に残り、幸いなことに内定の通知を受け取ったのです。入社後の勤務地は博多に決まったということでしたが、北九州市の小倉営業所に一人だけ空席ができるという情報をキャッチしました。私は小倉勤務を希望して無事かなえてもらい、張り切って春の入社を待っていました。ところが、運命は思いがけない展開を見せるのです。