読売新聞「シリーズ元気」(2003.02.05)より転載
村上祥子が料理に目覚めたきっかけは子ども時代の家庭環境にあった。
村上の父は、北九州で石炭の仲卸をしていた家の跡継ぎだった。母は都会育ちのお嬢さんで、病弱なこともあり、ほとんど料理を作らなかった。その母に喜んでもらいたくて、台所に立つようになった。
料理はできなかったものの、母の舌は肥えていた。子ども相手でも容赦しない。ある日、自分なりに工夫して、ゆでたジャガイモをオムレツに入れてみた。当時、まだ小学生。得意げに母に差し出すと、「すごくまずい」。そして、焼きノリと梅干しで、おいしそうにご飯を食べた。
「さすがにこたえました。でも、相手がおいしいと喜んでくれるものを作らなきゃと思いました」
家で働くお手伝いさんと、当時家庭に普及し始めたばかりのテレビの料理番組が、先生だった。
七輪で髪の毛をチリチリにこがしながら、料理の腕を上げてくると、村上は自慢の娘になった。「この子の作るポテトチップスって絶品なのよ」。客人が来ると母はそう言って自分は居間に座り、村上は台所へ飛んで行く。ほめられれば、一層、やる気も出る。二十二歳で結婚するころには、それこそ何でも作れるようになっていた。結婚してからは、正月前に一週間かけて、二百人分のおせち料理を作った。夫の会社の人々をもてなすためだ。「段取りも含めてうまくならないわけがないですよ」
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村上が身につけた段取りの良さは、その後料理研究家になってから存分に発揮される。料理写真の第一人者、佐伯義勝(75)は、村上の料理を撮影したときに驚いた。村上は首から色の違うタイマーを三つも四つもぶら下げて、緑がピッと鳴ると、あっちへ行き、黒が鳴るとこっちに行き。見ている方は何をやっているのかわからない。「一度に五、六品も同時進行する料理研究家に、お目にかかったことがなかった」
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家事が好きで、大学も家政学科を選んだ村上だが、実は「料理の先生なんてやぼったい」と思っていた。米国に行きたいと、たった一人しか採用枠のない米国企業に就職も決めた。「働く女をやるはずだった」
しかし、夫、啓助との出会いがその人生を変えた。仕事と家庭の両立は無理だと諭す啓助の言葉に、「仕事なら後からでもできる」と割り切った。しかし、決意は三か月と持たなかった。
「家事を完ぺきにこなしても、エネルギーが余ってしまう」。ピアノの講師などのアルバイトを始め、次第に得意の料理へ活動の範囲を広げていく。(敬称略)
(生活情報部・小坂佳子・読売新聞より転載)