朝日新聞(夕刊)人生の贈りもの「料理研究家 村上祥子」(2011.05.18)より転載
--結婚後数年のうちに3人のお子さんに恵まれました
長男が1966年、67年に長女、69年に次男が生まれました。
相変わらず自由になるお金が欲しくて、編み物の内職をしてみましたが、上手じゃなくて、たちどころにクビになりました。
そのころに出会ったのがアンさんです。
外国人女性のための料理教室は、夫が東京から大分に転勤になって1年間で終わりました。
でも私はお金をちょうだいして料理を教えることに、ひじょうに自信がついたんです。
私に向いているな、と思ったのです。
--引っ越した大分でも、すぐ生徒さんができたのですか
亭主は会社の若い人を家に連れてきてご飯を食べさせるのが大好きです。
私もそれが生きがいでせっせとごちそうしていましたら、結婚したばかりの人が「妻に料理を教えてくれませんか」と言うのです。
もちろんOK。
1人に教えたらぱーっと広まって、5、6人ずつの教室が3クラスもできました。
4年後に大分を去る時は90人も生徒さんがいて、駅のホームで見送って下さった。
子供が学校前で、生徒さんもみな子供連れ。
隣の部屋で子らにはお弁当を食べさせ、こちらでお料理教室。
社宅は開拓地みたいな山の上で、気取った食材は手に入らず、私が毎月小倉のデパートに代表で買い出しに行く。
ついでに洋服なんかも見てね、ふふふ。
このころは料理コンテスト荒らしもしていました。
ありとあらゆるコンテストに応募する。
私には先生がいないですからね。
だんだん教室の生徒さんのほうが上等なことをご存じだったりして、何とかしなくては。
腕を磨くのにはコンテストだと気づいた。
最終審査まで残ると旅費が出て東京まで呼んでいただけて、審査員をしている一流の人にアドバイスを頂けます。
そのために傾向と対策を徹底的に研究しました。
主催者の意図を推し量り、審査員の顔ぶれを見て、「食材はこのレベルかな」などとね。
--コンテストの一つが雑誌の仕事につながったのですね
雑誌「ミセス」が募集したアーモンド料理のコンテストでした。
73年のことです。
ごほうびの米国旅行になんとしても行きたくて、しばらくアーモンドしか頭にありませんでした。
無事優勝しまして、2週間米国へ。
あちらのスーパーや百貨店に並ぶ食品の豊かさにしびれました。
子どもたちはどうしているかと帰り道のハワイで、はたと気づいて心配になりましたが、それまで忘れ果てていました。
このとき「ミセス」の記者も同行されたのが縁で、料理ページを書かせていただけるようになりました。
ちょうど夫の転勤で上京した時期で、ほかの雑誌などにも仕事が広がりました。