朝日新聞(夕刊)人生の贈りもの「料理研究家 村上祥子」(2011.05.17)より転載
--病弱なお母様のために、子どものころ作ったのはどんな料理ですか
はっきり覚えているのは、おじゃがをたくさん入れたオムレツを作ったらさぞおいしいだろうと考えて、作ったことがあります。
ところが母は「悪いけど、おいしくない……そこののりの缶を出して」。
はっきりものを言う人でした。
でもお客様があると、私のことを「お料理がとっても上手なの」と紹介して、「あのポテトチップスを作ってちょうだい」なんて言うんです。
私は、じゃがいもを薄く切って水にさらして2度揚げしてバリンバリンのを得意になって作りました。
中学3年ぐらいだったかしら。
料理の本などあまりない時代だから、自分で工夫したのだと思いますよ。
--お母様の影響は他の面でも強かったそうですね
女性でもひとりで食べていけないと、という考えでした。
自分には手に職がなく果たせなかったことが多かったのだと思います。
大学時代、私が家庭教師をすると言ったら父は「こづかいは十分あげるから働かなくてよろしい」。
けれど母は「どういうふうにお金を稼ぐのか身についたほうがいい」と口添えしてくれました。
大学を卒業するとき、私はキャリアウーマンになるつもりでした。
米国のコンピューター会社の九州支社で募集があって、コンピューターの何も知りませんでしたが、高給が取れそうなので試験を受けました。
日本の会社の初任給が1万2千〜3千円のところ2万5千円頂けるそうなので。
採用は1人だったのですが何の拍子か合格し、バリバリと稼ぐ予定だったのです。
ところが卒業間近に夫と出会い、永久就職もいいかもと思ったのです。
キャリアウーマンと両方するつもりでしたが、彼は昭和一けたの人なのでそうはいきません。
どちらを取るか考え、思い切りよく仕事を振った……それがフリー人生の始まり。
--結婚を選んだ決め手は何だったのでしょう
親元から出たかったのだと思う。
明治生まれの父親と、仲が悪いわけではありませんが、もう少し自由になりたかったですね。
-- 結婚後しばらくは主婦業に専念されたのですか
結婚してみたら、亭主にお金がないとわかったんです。
妹を東京の私大にやっていたので。
それには感心したのですが、自由なお金がまったくない。
本代ぐらい稼ぎ出さなきゃと、ピアノの先生になりました。
午後3時から9時ごろまで1人30分、1日12人を見る。
ピアノも会場も生徒も音楽教室が用意してくれる代わりに、2千円の月謝のうち1割しかこちらの収入にならないのです。
そのうち妊娠し、体調を崩してしまったこともあって、おしまいになりました。