第5回 病床の生ハム”哲学”変えた

読売新聞「シリーズ元気」(2003.02.11)より転載


いつも元気でエネルギッシュな村上祥子(さちこ)だが、三十代後半から四十代にかけて足踏み状態が続いた。

「もう仕事をやめよう」-。そう思ったのは三十代半ば、東京・成城から北九州に引っ越す時だった。
すでにそのころは、何十人もの生徒を抱え、料理雑誌の仕事もするようになっていた。夫の啓助は単身赴任する腹を決め、「東京に残ってもいい」と言ってくれた。
しかし、村上は仕事をすっぱりやめた。体力的な限界を感じていたし、思春期の三人の子どもを抱え、東京で一人でやっていく自信はなかった。
料理教室のために買いそろえたたくさんの食器や調理道具は、生徒に持っていってもらった。家族用に残された、わずかな調理用具を見ていると、涙がにじんできた。

実は、このころから村上は原因不明の高熱や頭痛に悩まされていたが、「仕事と家事で、気を張っているから、疲れが出たのだろう」くらいに思っていた。
あまり寒気がするので、家の中でもコートを着込み、その上からエプロンをして台所に立ったこともある。
病院で調べても原因が分からない。脳外科の検査中に意識不明になったこともあった。「さすがにこのときは、命を落とすかもしれないと、怖かった」
病名が判明したのは、四十歳の時。慢性骨髄炎だった。十八本の歯を何回かに分けて抜いて、あごの骨の化のうしている部分を削り取っていく手術を受けた。
入院中、啓助がイタリア製の生ハムを持ってきてくれた。病院食にあきていた村上は早速手を出した。
塩気が、口の中の傷にしみたが、ぐっと飲み込んだ。あまりのおいしさに生きている喜びをかみしめた。
夜になると村上はこっそり電話した。「あの生ハム持ってきて」。
一人、病室で生ハムを切っては飲み込んだ。少しずつ元気が戻ってきた。よく食べることが命をはぐくむ。そう実感した。村上の“料理哲学”は、新たな方向を模索し始めた。

一度は仕事をやめたものの、北九州に移ってみると、村上の気持ちは変わった。
新しい社宅は敷地が四百坪のお屋敷。子どもたちが学校へ行くと、昼間は独りぼっち。
「いくら窓を磨いてもだれもほめてくれない」。寂しさに、じっとしてはいられなくなった。
「やっぱり仕事がしたい」。スーツに身を包み、地元の新聞社に向かった。
書きためた料理原稿の売り込みだ。半年ほど通い、相手が根負けする形で、新聞掲載をものにした。
足踏みは、飛躍のための助走だった。(敬称略)
(生活情報部・小坂佳子・読売新聞より転載)

写真=村上は北九州の社宅の台所を自分の使いやすいように大がかりに改造した。当時としてはモダンな設計だった
(第6回へ続く)